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著作権侵害はあっても思索権侵害はない
山崎:変に飾らず、御自身をそのまま出すから良いんでしょうね。山見:それもショーペンハウエル先生の訓えです。「真理はそのままでもっとも美しく、簡潔に表現されていればいるほど、その与える感銘はいよいよ深い」とあります。「簡潔さ」が人の胸をうつのでしょう。「単純素朴さはもっとも高貴なものにも通ずる」とあるように、飾っているとわかったら人の胸をうたないものです。
山崎:正直、長続きしないですよね。その場しのぎで。
山見:そう。人の考えのウケウリだから。自分で咀嚼しないとね。
例えば、自分が一生懸命考えたことを偉い人がすでに言っていたり、本に書いてあることがあるのですが、そのようなことはショーペンハウエルのような哲学者でもあるそうです。ところが「自分の思索で獲得した真理であればその価値は書中の真理の100倍にも勝る。第一に自分で考えた真理のみ自分のものになる」と書いてあるのです。勇気がでますね。
自分で考えていたことをたまたま他の人が言っていたとしてもいい。単に「人がこう言っていた」と書くよりも、自分の言葉で語る方が100倍も勝る。それだけが自分のものだ、ということです。
山崎:自分もブログで日々、自分が気付いたことを書いていますが「誰か他の人が同じこと言っているのかな」と気にすることはないのですね。
山見:気にすることないでしょう。ただし、そのアイデアや思想が独創的であるかどうかだと思います。たまたまそういう人がいてもいいのですが、特に偉い人が同じことを言っていたらなおさら良い、喜べば良いのですよ。もちろん、まったく誰も考え付かなかった独創性あるアイデアがベストであることは言うまでもありません。いま思いついたのですが、著作権侵害はあっても思索権侵害はないのです。考えることには何の侵害もありません。思索は自由です。イエスキリストと同じことを考えても問題ないのです。書かれたものを書いたら著作権侵害ですがね。たまたま同じようなことでも自分で考えたことなら表現も違うしまったく問題はありません。
著作は必ず人を育てます
山崎:山見さんの著書「広報活動のすべて(2005/10 PHP研究所)」のあとがきにありました「成形の功徳(せいけいのくどく)」と著作の関係についてお話いただけますか?山見:写真を例にとりましょう。写真は撮ったあと袋に入れたまましていると後で見る気がしないものです。しかし、それをアルバムに整理して日付順に並べたり、コメントを入れたりすると一生の宝物になる。つまり、アルバムに成形すると功徳が生まれるのです。新聞のスクラップとスクラップブックの関係も同じです。
服装もそうです。結婚式など公式の場で、タキシードや着物を着て正装すると姿勢も「シャキッ」とするでしょう。見る人もちゃんとした人として見るものです。それも人間を成形していることになりますね。素人の絵でも立派な額に入れると、名画のように見えるのも同じです。 このように成形すると別な威力が出るのですよ。思いがけない効果が降ってくることがあります。
本を書くことは正に成形です。物事は頭の中や身体にばらばらに入っています。自分の経験や頭の中に入っている知識とかを伝えるには話す方法がありますが、それだけでは限られた人にしか伝えることしかできません。ところが、本になった途端、全国津々浦々に広まるのです。
もし本にならなければ自分の考えを広くは伝えられないのですよ。2002年に最初の本を出した時から出版する度に、思いがけない反響があって、実際にセミナーの依頼が増えたりして別な威力を発揮します。これが「成形の功徳」というものですよ。
山崎:本を書くことは素晴らしいことですね。
山見:著作は必ず人を育てます。
山崎:著作のコツを確立されているようですが、山見さんでも、いわゆる「行き詰まる」ことはあるのですか?
山見:それはいつもあります。とくに、最初の本を書くときは困りました。なかなか書けないからほっておいたんですよ。そうしたらダイヤモンド社の編集者から電話で「山見さん、書けてないでしょう。最初のページから書こうとするから書けないんです。言葉で悩み始めたら続かないので、書きたい、あるいは書けるところから思った通りに書いていき、だんだん埋めていけばいい。そうすればパズルのように埋まっていくもんですよ」と。
なるほどと思い、自分がやってきたことを書けるところから書きだしたらどんどん進み始めて結局できたんです。
そしてもう1人恩人がいます。書けないで悩み、友人の東洋経済新報社の大西出版局長を訪ねた時、「本はね、貴方以上でも以下でもない」と言われたのです。その言葉は、先ほどのショーペンハウエルの「文体は顔つき」という意味と一緒ですね。
つまり「どう書いてもあなたと言う人間がわかるんだ。威張って書いたら読者はそう見る、自分以下のものを見せてやれと変に書いたら、読者には卑下しているとわかる。貴方はまな板の上の鯉、言いたいことを断言して書け」と激励されたのです。それもそうだと勇気付けられ、思った通りに書いてみると、とても良かったというわけです。
読書は最低限すればよい
読むとすれば良書を読め
山崎:読書法についてもお聞きしたいのですが。
山見:それもこの本(「読書について」 ショーペンハウエル 岩波書店)から学びました。そこには「良書だけを読め」と書いてあります。 「新しい本だからといって思想が進化していると言うのは間違いだ」というのです。
ゲーテ、アリストテレス、孟子、孔子、聖書から今も、世界中の人たちが学んでいるのです。
だから新しいから良いとは限らない。むしろ、最近のITの発達によって、人間は精神的には退化しているともいえましょう。
何年もかかってみんなが読んで「これは良書である」と残った本をだけを読め、と書いてあります。悪書は人の時間と労力を奪うとも。
良書のように見せて内容がない本もあるじゃないですか、タイトルだけドンと。
それは、外見だけ着飾って中身がガタガタな人と同じですよ。
「重要な書物はいかなるものでも2度読め」これもいい言葉ですね。
2回目は景色がわかっているからもっと良くわかり、以前と違った気分で読めるとの訓えです。
山崎:僕も最近、今でも残っているもの、古典がよいと最近気付いてきたんです。
山見:何度読んでもいいものです。内容はわかっていても、そこは読むとなるほどそうだと思いますね。いい本は何度読んでもいい。どれもそう思うのです。
山崎:良書を何度も繰り返し読むのが山見さんの読書法ですね。
山見:そうですね。ただ、こんな言葉もあるんですよ。
「読書は他人の頭で考えること」とある。つまり、読書ばかりしていると、ばねが絶えず圧迫され続けると弾力性が無くなるように、精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されていると思考力がなくなる。何でも読書しすぎるのはよくないとの訓えです。テレビを見すぎるのと一緒で、思考力がなくなる・・・与えられてばっかりだからです。読書は最低限すればよい、多読を慎め、読むとすれば良書を読め。もちろん、良書であれば多いほどいいに決まっていますが、思索を優先せよということです。それが結論です。


